駅ですれ違う学生の動きがいつもより規則正しくないと思ったら、もう三月に入っていました。すっかり季節は春に向かっています。
そういえば私も学生のとき、この時期は年度の終わりが来たと毎日どこかで感じていました。春休みになったら会えなくなる人もいるので、クラスメイトや先生の誰かしらとのお別れがあったからです。こう言ってみると、まるで私が情に厚く、下手すると毎日泣いていたように聞こえるかもしれません。しかし実際のところ、別れを惜しんだり、記念の何かを残したりといったことには消極的でした。大抵いつも通りの振る舞いを再現するので精いっぱい、お別れだということを考えないようにすることに集中していました。ばたばたした三月をやり過ごせば、四月が来ます。新しい学年になって、また一年の繰り返しだから大丈夫、と、思い込もうとしていました。
当時は気付きませんでしたが、ASC(自閉症スペクトラム症状)を持っている私にとって、環境や人間関係の変化というのはかなり大きな負荷だったはずです。でも、一年ごとにプログラムに沿ってぐるぐると学年を上がって来られた学校生活は、「規則正しかった」からこそ乗り切れたのだろうと、今になって思います。クラスや先生、通う学校が変わったりと大きな変化に遭っても、馴らされた生活リズムのおかげで痛みを減らせていたのでしょう。
私が学生でなくなって随分経ちます。あるとき職場の方から「明日で会うのが最後だから、お別れをしようよ」と言われたことがあります。あまりに真っ直ぐだったので私は面食らってしまいました。よくわからないままの咄嗟の対応が合っていたのか自信がありません。しかし、目を見て二、三言交わしただけだったのに意外と記憶に残っています。失ったり変わったことに心を揺さぶられても、そうした「お別れの記憶」をきちんと留めておけたら、つらい変化を乗り越えられるものなのかもしれません。
ただでさえ、些細なことでも乱されてしまいがちな私の日常。私にとってあの「お別れをしようよ」は、絶妙なバランスを保ちながら日常を続けていくために大切なものだったのだと思います。
marf