コラム:有害、無害について考える

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画像出典元:Ruger Firearms http://www.ruger.com

「こういうことをしちゃ、いけない。」こういった道徳観念は、何かしらの”大事にしなければいけないもの”に沿って判断されるものでしょう。一般の感覚を持っている人からすれば非常識な感覚を持っているといえる発達障害の当事者は、しばしば”大事にしなければいけないもの”の優先順位が常識的でないという点で、目立ってしまうことがあります。

その際たるものが、害をなすという概念の捉え方のずれです。それというのも、「自分のされたくないことは相手にもしないようにしましょう」のような小学生的な道徳観では一揃えに動けない、というケースが害をなす・なさないの場合でまま発生するからです。先天的な感覚の違い、同じく発達障害傾向のある家庭内での環境からくる違い、理由はいくつかあります。ただ何が酷でなにが酷でないか、自然と自分が思うことと多くの人が思うこととがずれていて、そのずれが自分を非常に不利にすることに気を張っているという気持ちが、必然生じやすい星のもとにはあるのです。

私自身に関して言えば、この何を有害・無害と思うのか、の感覚は相当ずれている自覚があって、同じく発達障害を抱えるTENTONTOメンバーですらドン引きさせてしまうことが多々あります。具体例を挙げると、私の趣味の”世の中にある面白いもの集め”の成果を話すときなどに起こりがちです。

私が有害だと思う、または思いやすいものは、稚拙な造形のものです。芸術を学んでいた学生時代から、基礎のなっていないまやかしの、素人の見る目の無さに甘えたような造形をみると虫唾が走り、創作者は発展の途上かもしれないので咎めは無いとしても、それそのものや、それを好ましいものとして広めたがる輩は本当に有害だなと思います。もっと有害だと思うのは表現活動を幼稚な基準で規制することで、これには心底うんざりします。これらのことは私は非常に有害だと思いますが、あまり共感してもらうことはありません。

逆にどんな場合であれ無害だと思うものは、洗練されたアイディアの類です。社会や人間を鋭く捉え、それを洗練した形で表現したアイディアには、たとえ皮肉や反社会的色が利いていようと害のあるものとは感じません。自分がそういった皮肉の対象になったとしても(これまでも様々な表現活動をしてきたのでそういう状況も経験していますが)、表現の応酬が始まったな、という感慨しか持たないです。

これらの有害・無害の捉え方から、”世の中にある面白いもの集め”で集めてきたものの中には日常で目にすることの無いような色のものが多くあります。例えば、”アメリカ人のファッショナブルな女性をバイヤーターゲットとした、ブランド・ティファニーのテーマカラーを模して塗装されたハンドガン”。そんな異様なものを見つけてきて、やれアメリカではカスタムショップが独自にティファニー色を塗るサービスをしていたようだとか、アメリカの銃メーカーでティファニー色のラインナップが増えているとかをマニアックに説明します。

銃は人に害をなすもの、女性のファッションセンスについて皮肉交じりに考証を進めることも尊厳を傷つける害をなすもの。そういった認識よりも、そういって生み出されたテイファニー色の銃にみられる作り手側の目の付け所や工夫に感心して、まったくの無害なものに感じてしまうのです。

そういう自分のマッド・サイエンティストな気質とは、死ぬまで一生向き合っていかなければならない問題と思っていますし、しょうがないやと安易に開き直るつもりもありません。人が害をなされたと思うこと、イコール人を傷つけることですので、それは奨励されることではありません。ただ、どんなときでもそのような生理的直感に反した行動をとっさにとれるか、というと、それは非常に困難を伴うとも思います。なので私は、その度合いによってはですが、多少は甘えられる信頼できる人がいてもいいと思っています。

道徳は頭ごなしに規定されるものではないので、こういったことひとつにしても、やらなければいけないことは沢山あるのです。

ユミズタキス