世の中わからないことばかり

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CHILLれぬ日々を過ごす 第13回

TENTONTO編集長のユミズタキスです。根が繊細なので、昨日のファンミーティングでしばらくぶりにたくさん話をして、夜は頭が冴えてしまって寝れず、今日もグッタリとして一日を過ごしていました。ふいに文字が書きたくなったので、発達障害の受容に絡めて、世の中わからないことばかりじゃないかの話を書こうと思います。

例えばあなたがマッチで橋を作って、自分にも他人にも、まるで橋のように見えたとします。自分も満足しますし、出来栄え次第では他人からすごい、と、評価されもします。あなたには才能がある、将来は建築関係に進むかもしれない、と言ってくる人もいるでしょう。世の中わからないことばかり、もちろんそんな未来だってあり得ます。

ただここでいいたいのは、今、目の前にあるのは事実、マッチ棒でつくった橋というだけ、ということです。なので、世の中わからないことばかりだから、マッチ橋を人間が渡れるかもしれないよ、とはなりません。そういうものじゃなくて、単に人というものの執念が評価に値していたり、なんらかの構造についての気づきをごく一部の専門家や美的感性の持ち主に与えるのみという、マッチ橋に対しての理解。一時的な達成感やおべんちゃらを取っ払って考えてみると、気づいてみればそれはそうだ、という、わかってくることがそれです。

こと、成長してから発達障害の受容をすることになった場合。単にこういう性質があるから気をつけよう、の反射的な行動規範を組み上げるのも、受容のひとつです。そしてより深い心の部分の話をすると、自分がこれまで組み上げてきた、きているものが事実、なんらの界隈への強度を持ち得ていないことを、骨身に染みることでもあると思います。

世の中わからないことばかりの中で、診断を通じて唐突に立ち現れた、社会的にハリボテの自分をわかること。それは簡単なことでしょうか。私には少なくとも、その過程で情緒や精神の不安定は避けられないことのように思われます。

世の中わからないに責任をもってあぐらをかかないことを始めて、苦しみながら知見を深めて。自分のケースがありふれた不幸であることに落胆して。そのあとに立ち上がるための見上げる星は、自身の能力の凸凹だのの、尖って優れているらしい部分なんかじゃなくて、それでも生きて考えている自分があることの、考える葦としての部分だろうと、私は思っています。その考えるということを芽にして起こされる行動には、世の中わからないことばかりに髪をなびかせられるような、そんな風が吹いていると思うのです。

ユミズタキス