人の気持ちを想像できないなりに2
先週に続いて、ASD傾向がありながら少しそれともズレた私の道徳観念について、思索を深めながら書いてみたいと思う。
私の中では、してはいけないことの基準はある程度ハッキリとしている。それは、本人またはそのものの由来に責任がないところへの侵害、誹謗中傷といった類の暴力行為だ。ざっくり言うと国籍、人種、性差、障害、容姿、文化などへの差別や、不慮の事態、災害に見舞われた人の神経を逆撫でするような行為などが該当する。
ただ、私の持つこういった道徳観念を他者が感覚的に理解することは意外と少ないように感じる。『キモい』という言葉を、そんなこと言ったってしようがないという事柄に対して平気で使うような人が、自分の身の回りには自分が考える以上に多いのだ。前述の通り、そういった言動はもちろん私を不快にさせるので、そういった発言を繰り返す彼らを諌めようとは思う。しかし私が口を開いたところで、自分の方が浮くだけなので口を開くのを憚られることが往々にしてある。「理屈で考えればなんとなく言いたいことは分かる、けど普通そんなことでそこまで怒る?」と言われるのがオチだ。こういった感覚のズレはどこから来るのかを少し考えてみる。
ASD由来の感覚のズレが原因で、多くの人と分かり合えない事柄が私にはいくつかある。今では開き直って「自分、変わってますから」とそれとなく距離をとるか笑い話のネタにするが、昔はズレを他者から指摘されるたびに困惑した。そういった困惑から身を守るため、人との付き合い方で少し距離を取るようになり、自分のやることなすことに一々何か指摘されないように振る舞ってきた。つまり放っておいてほしかったのだ。
そうでありながら、自分には人と関わるのが好きな一面がある。唐突で申し訳ないが、フォークポップで有名なYou’ve got a friendという曲(ジェームス・テイラーのカバーで有名なキャロル・キングの曲。自分がよく聴くのはYo La Tengoのカバーで、これが一番好き)を聴くたびに、良い曲だなぁとシミジミ思ったりすることが私にはある。大切な友人でもそうでなくても、自分に少しでも誠意を向けてくれる人になら、本当は構ってほしいし構ってあげたいのだ。
放っておいてほしいのに、構ってほしいし、構ってあげたくもなる。人と関わるのはしんどいけれど、関わらずにいられない。そういったややこしい内面が、人それぞれズレがあって当たり前だけど、そこは茶化したりバカにするのはやめよう、という私の道徳観を作り上げたのだと思う。それは他人との相互理解のための、また、私なりの理想のコミュニケーションのために築いてきたスタンスなのだろう。
TEHO