コラム:ひとにはいえないことだってある

「誰しも同じように、人にいえないことがある。」人という知的生命体に神秘を感じたいからか、自分の普通ではないトクベツな気持ちを代弁したいエゴイズムなのか、そんな言葉を感想に添えられる。感覚の違いについて独白した際に、その応対としてこの言葉を伝えられることが、私にはままあります。

私はものごとを評価値、程度、塩梅で考えてしまうので、十把一絡げなこの言葉はどうしても思考停止に感じられて苦手です。しかし、誰しも「それ」に似た思いを抱いて生きていることは、あり得ることだとは思っています。

人と共有するものではないことと、そうではないもののこと。その違いは、きっと自分の大切にしたい世界について、真剣な気持ちのあるなしによる、鼎の軽重が関わる命題だと私は思います。真剣、とは良く切れる刃物のことですから、これはどれだけ切迫しているか=強迫神経症(OCD)的か、という感覚に根ざしている概念かもしれません。

人知れず酷い目に遭って、傷ついている人。「人にやさしい」と言葉にはできるけれど、その言葉の意味は、本当は無限に発散する解のようなもので、あくまで理想の世界のものだと私は思ってしまいます。言葉だけで表せた気になって、胸を撫で下ろしているだけではいけない。あくまでムリに安心しようという強迫観念だって世の中にはあるし、それが全てだと決めつけたくもない。

私の中にはそんな「思う」がありますが、それらを「自分のために選択せざるを得ないもの」とも思えず、効力感の「率」は抜きにして、それらを考えていたい、正直でありたい、そうして生きていたいと思う感覚。

小難しいヤツだとか、潔癖なんでしょ?とか、モラトリアム、アンニュイ、いくらでも「そんなヤツ」に対して決めつけはできますが、そんな感覚に基づいた強迫観念だって、事実この世にはあったりします。そんなことも、センサリーデザインを通して私はお伝えしたいですし、もっと平たく、人ってなんだろう、やさしいってなんだろう、障害者に必要とされる則、厳ってなんだろうと、たくさん思って、心を動かして欲しい。

そんなことを考えながら、センサリーなアイデアの足りない都会の満員電車に、今私は揺られています。

ユミズ タキス