否定の言葉は、魚の小骨?
CHILLれぬ日々を過ごす 第5回
みなさんこんにちは、TENTONTO編集長のタキスです。”発達障害当事者の日常”をテーマに、リラックス出来ないアスペルガー&ADHDのココロを描くこのコーナー。今日はみなさんに「言葉通りに捉えてチルれない」話をしようと思います。
アスペルガーを含む自閉症スペクトラム(ASD)のことを『文脈盲』と呼んでいこう、というイギリスでの活動を、以前ご紹介しました。文脈、つまり物事の前後関係が捉えられずに、言われた言葉やされた行為のみを捉えてしまう傾向が、ASD者にはあります。定型発達の方にはちょっとイメージがつきにくいと思いますので、できるだけわかりやすくその感覚を説明してみます。
生まれつき視野がとても狭いから、目の前に起こることに一喜一憂しやすい。たとえば美術館に行って絵を見るときも、なんとなく、つまり「ながら作業」で鑑ることはできません。私は油絵が好きなのですが、絵にとても近づいて、そのチューブの跡に残る筆致から作者がどんな感情で絵を描いたのかを想像したり、隣合わせている色と色の妙に感動したりします。小さく描かれたモチーフをみつけ、その意図を考えます。今度はとても離れて、それらの細かな作業が集合してひとつの画面となったとき、どのような効果があるかを楽しみます。
その感覚は「食事」と似ています。食べ物を味わうときには、どうしてもいっぺんには食べられませんから、誰しも「視野の狭い」状態に近い感覚の使い方をすると思います。ハンバーグを食べれば熱さと油の旨味が歯茎を満たしますし、ポテトを食べれば喉に詰まるし、パセリを食べれば苦い味が広がります。ASD者はあらゆる情報を食べて味わってしまう、と考えてみると、刺激に対して感覚のずれがあり、疲れやすい特徴を別の角度から捉えられると思います。
さて、ASD者によくあるのが、誰かからの否定の言葉にひどく傷ついてしまうこと。ちょっとしたジョークのつもりや、たしなめる程度のニュアンスで「だめ」「びみょう」「よくない」などの言葉を使われた状況。これを先ほどの食事の例で考えてみます。
否定の言葉は魚の小骨や貝の中の砂利みたいなものに私は感じます。それまでおいしく食事(この場合は会話)していたとしても、小骨が刺さったり、砂を噛んだ瞬間、それまでの気持ちは一切忘れて、不快感が頭いっぱいに広がります。話全体で見れば否定の言葉のその場での意味も理解できそうなものですが、視野が狭いためにそうはいきません。目の前に小骨や砂がいっぱい混じった食べ物を突きつけられたように感じます。しかも会話に参加するということは、ASD者にとってはそれを口にして、どんなにつらくとも丸呑みにしなければいけないことでもあるのです。話を聞く、を言葉通りに実行するためです。
目が見えない人が急に飛んできたボールを避けられないのと同じで、ASD者は「食べられない言葉」を避けられません。正面から思い切り食らってしまい、深く傷つきます。どれだけ傷つくかは、ちょっと簡単には説明できそうにない、まさにゼツボーといった感じです。マズイ食べ物ってやたらしっかり覚えてたりしませんか?私の脳には「○○さんからもらった否定の言葉はこんな風にマズかった」みたいな鮮明な情報が、山のように入っています。そんなトラウマを重ねて、人によってはおいしいはずの言葉でも、おいしく感じられないようになっていく場合もあります。
実は自分のこのような受け止め方に気がついていないASD者も多いです。自分のことを知るのは難しい。巷にあふれる「アスペ=空気が読めないウザいヤツ」という知識よりも、まずこのアスペ(ASD)特有の受け止め方の違いを知りたかったな、と、私はよく思います。
ユミズ タキス