強迫めし 寿司編

150620meshirogo

寿司が大好きだ。特に好きなネタはホタテとサーモンで、回転寿司に行くと2皿、3皿と食べてしまう。魚が好きで、酸っぱい物も大変好き。両方合わさった寿司は最高、という訳である。似た料理では、海鮮丼も好きだ。この前に山形県の酒田港で食べた海鮮丼はとても美味しかったのを思い出す。

けれど、たまにふと疑問に思うことがあるのだ。

前にも書いた通り、僕はビーフステーキが食べられない。しかしポークステーキ、チキンソテーなら比較的平気だ。同じ「肉」という食べ物を、同じ方法で調理しているのに、なぜ牛の肉のそれだけダメなのか。これにはいくつか理由があると思っている。

まず、①「分厚い」こと。牛肉は比較的厚くて硬いので、ナイフで切り分けるのに時間が掛かる。脳に牛肉を「認識」する時間を与えてしまっているのだと思う。「厚みがある肉=食べ物として処理されてない肉」と認識してしまっているのかもしれない。

次に②「独特の味がする」こと。豚や鳥などは比較的タンパクな味だが、牛肉には独特の旨味がある。豚や鳥の肉より血がよくしたたっている気もする。そういうところが、「今食べているのは牛肉だ」というのを強烈に印象付ける。

「分厚い」と「独特の旨味」。この二つの条件が重なるビーフステーキという食べ物は、僕の感覚に「生きた動物だったものの切り身」を食べていると強く認識させる。だから、どうしても食べることができないのだろう。言い方を変えれば(心苦しい言い方になってしまうのだが…)、僕の感覚にとってはビーフステーキは「生きていた動物の残骸焼き」に過ぎず、「料理」ではない、とも言えるだろう。

以上①②の条件を寿司という料理に照らし合わせて考えてみる。①は、「料理」として「処理」されているかどうかについて、②は、その食材の味についての条件だと言える。まず①について、寿司の上に乗った魚の切り身は比較的薄く、しかも小さなサイズに切り分けられている。次に②について、魚は比較的あっさりした風味であり、しかも僕の感覚的にはその風味を好ましく感じている。確固たる根拠がないので推察に留まるが、これが寿司という「料理」を美味しく食べることができる理由だと思う。

ここまで書いて、重大なことを思い出す。このコーナーの第1回でも書いたが、僕は他の人が握ったおにぎりが怖い。不衛生さ(バイ菌など)を恐れているというよりは、炊いたお米を握る他の人の手、他の人の家の台所、といった、自分とは違う歴史を経てきたものに対する畏怖の念の現れに近いのかもしれない、と考えている。自分が経てきたものと異なる歴史の量に対して、脳が「ウッ」となってしまっているという訳だ。寿司にも同じことが起こりそうだが、起こらない。

この理由もハッキリとはわからないが、きっと①の条件に関係していると思う。握り寿司を家庭で作ることは比較的少ないと思われる。寿司というのはお店で食べる機会の方が多い料理であり、それを握るのは専業の職人さん、もしくは機械の仕事になっており、個人的な「歴史」が入り込む余地が少ない(機械に関しては皆無だろう)。僕の感覚では、この点を「信用」しているのだと思う。

さて今回は、「ビーフステーキ=牛だったものの切り身を焼いた物体」「自分とは違う歴史を経てきた、おにぎりという料理」を食べられない僕が、「魚だったものの切り身を乗せて、人の手で握る料理」である寿司を平気で食べられる理由について考察してみた。このコーナー、食べ物の倫理に反した表現がどうしても多くなってしまい大変心苦しいのだが、各人固有の感覚の違いを端的に伝える事例だけに、今後もお付き合いいただきたい。

 

Yutani