コラム:憂さ晴らし屋のめざめ

 
文:ユミズタキス

 
唐突だが、人には役割があるべき、という極論の話をしてみる。自分がどんな役割を果たしてきて、これからも果たしていくのかは、沢山のASD、ADHD当事者と接触していく中で、必然考えを深めていくことになった事柄だった。それについて現時点での解を、テントントの読者と共有しておきたいとおもったので、更新2時間前の今、画面をみつめてタイピングしている。

 
ユミズタキスにどんな役割があるのか。ひとつの結論として、憂さ晴らし、という語にたどり着いた。どうやらこれまで、障害のミックス具合によって、まるで憂さでできた蟻地獄の中で生きてきた、と言えるのを自覚したからだ。これまで得た経験のほとんどが、もがく中での行動原理に集約されている、と直観的におもえた。あちらを晴らし、こちらを晴らしても、延々終わらず時間ばかりが過ぎて、未熟な大人になってしまったことを受容できたのかもしれない。

 
そう考えると、あらゆることに未発達なのは当然と言える。自分には学ぶ機会があった。ただ、上達という形で憂さを晴らせる、初めの一定の範囲を攻略するころには、手付かずになっていた別の質の憂さが、後ろからどっと押し寄せてくる。だから学びが込み入ってくればくるほど、自分には届かない場所に咲く花を見ているような気持ちになった。

 
2年前にセンサリーデザインという言葉と出会えたのも、自分の現状を打開したい一心で行動した結果だろう。感覚の違いがあることを認め、感覚を起点にして生活の設計を行っていくデザイン手法。これまで自分が行ってきた砂中の暴れが、形を持ったような気がした。我流で身につけた憂さ晴らしの手法も、人に伝えられる形でまとめられそうな予感があった。これまで言語化はできなかったが、そういうことなんだ、とおもえた。

 
そして同時に、諦めもした。憂さ晴らしには新奇性、危機脱却性、もっと言うとある種の暴力性がつきまとう。昨日のクリス・ボネーロ氏の記事にもあった、自分より年齢が上の人間を、知性によって組み伏せられるのがチェスの良さである、といったたぐいの性質だ。人の役割として憂さ晴らし屋、である以上、センサリーデザインの性質のうちの一側面しか、ユミズタキスには普及させる能力がないことになる。たとえばセンサリーデザインの平穏な癒やしの側面をいくら語っても、未熟さが目立つだけになる。

 
幸い自分には、この活動に賛同してくれたメンバー、そして読者がいる。センサリーデザインの普及活動に、幕を閉じざるをえないわけではない。代表の自分の体たらくは情けない限りだが、これからやっと、ユミズタキスのテントントでの活動が始められるのかもしれない。