コラム:かくれんぼの修行
私は人に声をかけられたり、見られたりするのがニガテだ。名前を呼ばれるとびっくりして心臓が跳ねる。私は背景に溶けていたい。誰にも見つけて欲しくない。ドラえもんの秘密道具の石ころ帽子を被っていたい。
誰にも自分の気配を悟られたくないという願いは幼稚園生の頃から強かった。同い年の子達は鬼ごっこやサッカーなどの活発に体を動かす遊びが好きだったように見えた。だけど、私はかくれんぼが大好きだった。じっとして自分の気配を消し、鬼の子が探しに来てくれるのをひたすら待っているのが楽しかった。待つ時間が長くても全く退屈には感じなかった。
今になってみると、かくれんぼという遊びは罠を張って雌伏する野生生物の狩りの練習みたいなものだと思う。実は私はかくれんぼを好きなあまり、日常的にかくれんぼのための修行を積んでいた。どうしたら他人に気付かれずに存在できるかを幼いなりに考えていた。まず当時習っていたバレエの足運びを応用して、家に居るときも足音をたてずに歩いたりスキップしてみた。話し声も喚くようではいけない。耳当たり良く、環境音に近い音質で話す。ドアを開けたり、物を動かす時も音をたてないようにする。やがて、はじめから私の存在感が薄いのかもしれないし、練習の成果なのかもしれないが、生活において誰かの後ろから近付いていって私が声をかけるまで気付かれない、とか、静かに本を読んでいる私を見つけてびっくりされるということが普通になった。
しかし大人になったり、社会の構成員として存在しなければならないとなると、浮かないように目立たないようにするには何事も平均的にこなせなければならず、幼稚園生の頃のようにはいかない。落ちこぼれたり浮きこぼれたり空気が読めなかったり、私の石ころ帽子はどんどん役立たずになっていく。私は精神的な危機を頻繁に感じ、その度、小さな修行を思い出す。そうすることで心を落ち着けようとしている。成長した今でも、私は無意識に修行を積もうとしているらしい。
marf