コラム:どこまでしたいかの話
発達障害者支援の話でなくても、およそ支援という、なにかしら人に対して支えとなるアプローチを取るとき、どんなビジョンを持っているか、が大切になってくると思う。よりはっきり言葉で言えば、どこまでを支え、どこから支えず、見守るに留めるか、という話だ。
見捨て、無関心に対する警鐘について、TENTONTOの紙面やweb記事で、度々書いてきた。非人道的な行為であるからして、それについて書けば理屈としては正しいが、日々に一杯いっぱいで余地のない人へ伝えるに適う言葉ではない気もする。また、その人の心をいたずらに動揺させた上での心意気だけでは、何も形にならないことも事実だろう。正しさに胡座をかいた文章に自分が満足できなくなったのは、こういった団体で物を書く身としては成長したと言えるかもしれない。
フリーペーパーno.5で、自閉症スペクトラム児向けマインクラフトサーバーの創設者、スチュアート・ダンカン氏にインタビューをした。彼は自分の息子を含む、自閉症スペクトラム症状にまつわるいじめ問題について意見したり、積極的に活動している。最初に述べたビジョンの話で言えば、彼はいじめ問題を許さないところまでを支えていこうとしている、と言い換えられるとも思う。
自分はどんな立場だろうと、ずっと考えている。私の友人のひとりは、自殺は社会的動物としての人間にとって組み込まれているシステムなので、止めようもない、仕方ない、と言った。頭の良い人の考えることはよくわからないな、と、言われたときはモヤッとしつつも聞いていた。言われてから10年経っているが、今その言葉に大きな憤りを感じるようになっている。きっとそれを認めたくないのだろうと思う。それが自分のビジョンなのだろうと思う。
この手の問題に答えはなく、ひとりひとりが考え、行動した結果があふれ、共有される中で、人間の価値観は生まれていくと思う。自分は自殺が社会を回す上での必要悪だとは思えないし、いじめについては必要悪とも言えるコミュニケーション上の衝突のひとつだと思う。どこまでを支援すべきかと問われれば、自殺を無くせるようにしたいと思うし、根本原因にいじめがあるなら、自殺しない程度までその苦しみを軽減できればと思う。そう心が願っている。
その上で、自分のできることを考える。私の場合はペンを取る。人に伝わる言葉を探す。そうして形にしようとしていくことについて、どうしても妥協したくない。
ユミズタキス