ソーシャル・自分勝手なスタイルを、考えてみる。

tentonto_chillrenu

CHILLれぬ日々を過ごす 第15回

ちょっとマジメになって、発達障害のことに関わる身として、できることを考えている。

自分も当事者のひとりだから、自分のことから案を出す。今日の記事として、少し書き出してみる。
 

 
ピンとくるのは、言葉はいかついが、合法で、ヤクザにもならずに〈外れる〉ための方法のこと。

そういうことを考えた目的はハッキリしているが、一般に共感はされにくいと思う。

まず格好をつけたいというものでもないし、モテたくも絡まれたくもないのだ。

そしてそういうものを犠牲にして、何か偏ったことをしたいわけでもない。
 

* * *

 
では何が得たいかというと、紛れもなく、自由を得たい、自由があったらいいな、と考えている。

心を使って行動する自由。見出したものを表現する自由。楽しく、落ち着いていられる自由。

好き勝手やる、のとはだいぶんワケが違う。普通に生きれば、まず囚われる。

やった気になりたいのじゃなくて、実際にそれそのものを具現化したい。そんなことが必要と思う。
 

* * *

 
また、表現したものが、結果として何らかの態度を示しているかのような、

メッセージが込められているかのように見えたとしても。

受け取り主がどれだけのものを見、聴いてきたかに、結局のところそれは依存するだろう。

そのことを考えたりできる、ソーシャルな器用さは、少なくとも自分は持っていない。

人がどう思うかをできないなりに想像して、それのために自由を縛って動くことは滑稽に感じる。

自分以外の当事者にも、それとなく当てはまりそうにも思う。
 

* * *

 
自分の成長を、自分自身がしっかり見守ってやること。

それが精一杯できる、自分が大人としてできそうな〈監督する〉ということな気がする。

表現ができるようになること、表現を通じて自分が変わっていくことを見守ること。

そのこと以上に、静謐で豊かな、安らぐということはないような気がする。
 

* * *

 
そういうわけで、近頃はひたむきに手を動かしている。まずは自分から。
 
 
ユミズタキス