ソーシャル・自分勝手なスタイルを、考えてみる。
CHILLれぬ日々を過ごす 第15回
ちょっとマジメになって、発達障害のことに関わる身として、できることを考えている。
自分も当事者のひとりだから、自分のことから案を出す。今日の記事として、少し書き出してみる。
ピンとくるのは、言葉はいかついが、合法で、ヤクザにもならずに〈外れる〉ための方法のこと。
そういうことを考えた目的はハッキリしているが、一般に共感はされにくいと思う。
まず格好をつけたいというものでもないし、モテたくも絡まれたくもないのだ。
そしてそういうものを犠牲にして、何か偏ったことをしたいわけでもない。
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では何が得たいかというと、紛れもなく、自由を得たい、自由があったらいいな、と考えている。
心を使って行動する自由。見出したものを表現する自由。楽しく、落ち着いていられる自由。
好き勝手やる、のとはだいぶんワケが違う。普通に生きれば、まず囚われる。
やった気になりたいのじゃなくて、実際にそれそのものを具現化したい。そんなことが必要と思う。
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また、表現したものが、結果として何らかの態度を示しているかのような、
メッセージが込められているかのように見えたとしても。
受け取り主がどれだけのものを見、聴いてきたかに、結局のところそれは依存するだろう。
そのことを考えたりできる、ソーシャルな器用さは、少なくとも自分は持っていない。
人がどう思うかをできないなりに想像して、それのために自由を縛って動くことは滑稽に感じる。
自分以外の当事者にも、それとなく当てはまりそうにも思う。
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自分の成長を、自分自身がしっかり見守ってやること。
それが精一杯できる、自分が大人としてできそうな〈監督する〉ということな気がする。
表現ができるようになること、表現を通じて自分が変わっていくことを見守ること。
そのこと以上に、静謐で豊かな、安らぐということはないような気がする。
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そういうわけで、近頃はひたむきに手を動かしている。まずは自分から。
ユミズタキス