発達障害者にセンサリーはどうして必要か ― 思うところを正直に書く人として ③

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今回から発達障害者に関する、精神的自由権の話をしはじめようと思います。
 

発達障害者は一次的に非定型であること、社会のサポートが得られない場合には二次的にも非定型になりうることは前回述べました。非定型であることによる人間社会における困難は、どの国どの地域においても、生存を脅かされるほどにとても大きいものであると言えます。

ホモ・サピエンスという種は、想像力によって大人数と心を通わせる団結力によって地球を支配してきました。そのため、一旦心を通わせにくい、心を通わせられない存在が現れたとなると、目の敵にして排除を試みてきた歴史があることを、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は指摘しています。犯罪者や精神障害者に対する蔑視は、不快昆虫に対する敵意のように、多くの人の共同主観的な想像の中に横たわっています。

偽善的な敬虔さ、つまり独善をもってしてこれらについて表面的に否定し、自らの野蛮でなさを証明しようとすることに利用する人々もいます。そのような人々も面倒なことを考えたくないので、実はアウェアネスの難しい人々です。アウェアネス、発達障害者の感覚のズレについて本質的な理解を深めてもらうこと、を実現するためには、LGBTの事例と質を同じくして、生理的なもの、独善的なもの双方を正面から捉える必要があります。
 

精神的自由権といっても、この世に目に見える形で存在しているものではなく、そうではないからこそ人間が獲得に努めてきた安全のひとつになります。そして、大人数と心を通わせる団結力の部分において非定型として生まれ、生きることになった発達障害者が社会的に得るべき安全については、ほとんど整備されていないのが現状の世界です。

発達障害者の精神構造の研究も発展途上です。ただ現在いえることとして、自閉症スペクトラムにおいては感覚過敏との併発がままみられ、ADHDにおいては非定型な程度の不注意という形で感覚の違いが示されています。それは社会的にみて単に奇異なことであるだけでなく、社会において直面する問題について本質的に考えれば考えるほど、異物への非常に強い不快や敵意、独善といった共同主観的なグロテスクに向き合いながら解決を図らなければならないのです。
 

この点において、問題の切り分けができそれをまとまった形で語れる非定型の当事者と、大局を見据え冷静さを保ってヒアリングのできる定型の支援者の存在が不可欠になります。人は社会的役割をもって生きるので、万人がそうであれというのは非現実的ですが、センサリーの問題が起きている場所ではこの二者のうちどちらか、または両方が欠けているケースが、実際に多いと考えられます。
 

ユミズタキス

(次回は2019/7/21の更新予定です)