発達障害者にセンサリーはどうして必要か ― 思うところを正直に書く人として ⑥

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前回からのつづき)

次に、自分の快適を自分で考え出すことが難しいと感じる場合に、何ができるかを考えていきます。

この場合は、すべての感覚について、少しずつセンスを磨くことから始めていくのが取り組みやすいと思います。自分の快、不快についてきちんと知るためには、色々な刺激をいったん評価を保留した形で自分の中に取り入れ、比較を始める必要があります。


 
感覚(センス)というのも、ひとつのその人自身にとっての価値のありようであり、感覚の違いについて理解していくことは自分の現状の価値観について理解していくことでもあります(脳は可塑性のある柔らかい器官なので、加齢や経験などを通して変化もしますし、あくまで現状の感覚の傾向という観点は忘れずに持っておく必要があります)。

たとえば大きな音が苦手なのであれば、大きな音にまつわる色々なものも苦手になりますし、別の理由で苦手だと思っていたものも、実は感覚の違いに由来して苦手が始まっているかもしれません。そういったように、感覚とその人の考えは関連があるもので、現実を感じること、そして現実での行動にも関わってきます。

ですので、新しい刺激をなんとなく忌避してしまったり、考えるのがおっくうになり早合点して決めつけたりしてしまうと、現実とのギャップが大きくなって結果的に自分を苦しめることになります。
 
 

自分の感覚は自分がもっているものなので、正解は無く、誰かから教わったり、簡単に調べたりすることもできません。ただ、日々暮らす中でセンスを磨くという意識を持てば、現実世界の広さを知った上で、自分が大事にしたい感覚をより大事にできるようになるはずです。

センサリールームにやわらかな光に照らされる泡を眺める装置が置かれることが多いのも、浮かび続ける泡という連続的な自然現象から、現実世界の刺激についてセンスを磨く没頭を引き出せ、結果としてリラックスできるからと思います。こちらの記事も参考になります(→「なんか見ちゃうもの」の最高峰は「沸騰」でした – デイリーポータルZ)。

嫌なことから意識が離れられなくなると、当事者の現実世界を拒絶するという意味での(発達障害であることに関わらず生じる)自閉傾向はより高まります。現実とのギャップが大きくなりすぎると、二次障害としての精神障害も発生しやすく、健康を害すことにもつながります。そのため嫌なことから意識を離すことが必要で、センスを磨くための諸々は、それに最適である側面もあります。
 
 

マクロにもミクロにも、世界は充分に広いので、センスを磨く過程を通してよいものと自分の心地よさを知り、自分が生きやすい価値観をもってそれに少しずつ自信をつけていくことができれば、様々な活動を精力的に行う活力に繋がりやすくなります。

感覚の違いがあっても喜びある生活を送ること。そして、人間にとっての現実世界である社会においても、その喜びは見出せうるものである方が、社会の一員でもある発達障害者にとってより望ましい、と考えることができます。そのためにセンサリーは、当事者にとって必要不可欠なのです。
 
 

ユミズタキス
 

(次回は2019/9/1の更新予定です)