エッセー:センサリー・デザイナイズされた「息づく生活」を目指して

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画像出典元:株式会社ドリーム https://mydream.co.jp/

これまでTENTONTOでの活動を通して、色々な発達障害の当事者たちと会ってきた。様々な一次症状、二次症状の現れ、得意不得意の分野の違いはあれど、共通しているところ、同じく当事者で自分と通ずるところについて、自分なりに考えてきた。それは発達障害者への支援という捉えづらい存在について、自分の頭で整理したかったからでもあり、それは同時に当事者研究、つまり自分について知ることでもあった。


 
 
とても抽象的な言い方になってしまうが、発達障害(とくにASD、ADHD)者についていえば、①まず、何かしらの「自分の追いたいもの」について特化した思考様式をもつということ。②次に身体、神経系において何らかの不調や不快を日常生活で抱えやすい、ということだ。

脳というのは、一部に特化すればするほど別の機能が弱くなっていくような構造をしているので、その構造の副作用(と言っていいのか)によって体の不調があるのか、むしろ身体の不調が先にあり思考様式がそのような形になったのか、いずれにせよ混然とした状態になっていることは、まま共通して見受けられるように感じている。

なにも神経系だけに限らない。身体というダイナミズムにおいて、思考と身体は密接にリンクしている。つまり変わった考えを持つに至っていることは、変わった身体になっているということでもある。
 
 
TENTONTOでは、そのような変わった状態にある個人に価値を置き、その思考様式で社会に貢献できる力を発揮するために最適な環境を得られる自由の重要性について、センサリーデザインという考え方を通じて伝えてきた。その考えは今も変わっていないし、この活動において、これからも変わることはないだろう。こと、社会的に不利な立場に立たされやすい当事者は、最適な環境とは程遠い状況でロクに思考を回せず苦しみがちな現状がある。

その問題を解決するには沢山の問題が山積みで、それらがあらかた片付いた未来が訪れたとしても、マイノリティの中のマイノリティは(社会のモラルが保たれ、遺伝子操作、出生操作がなされない限り)常に社会に産まれ、存在し続けるからだ。
 
 
しかしこの考え方と平行する形で、当事者自身が自分の思考様式を社会で活かすため、自分の意思で自分の身体を変えるのを試みることもあるだろう。

ここからは最近の自分の話をするが、これは今の自分に必要、やった方がいいと思い立ち、実は肺活量を上げるべく鍛えはじめていたりする。なぜ肺活量?というと、簡単に言うと自分の身体の、特に呼吸に関するスタミナの無さによって、やりたいことが制限されていると感じたからだ。
 
 
 
 
もともと幼少期は虚弱な方の子どもで、喘息持ちでもあったし、遺伝的にも肺機能が強い方ではない。とはいえ水泳教室なんかにも行っていたし、部活では山岳も選手でやっていたし、有酸素運動を避けて過ごしてきたわけでもない。しかし振り返ってみれば、自分は喘息持ちでそれが当たり前なんだと思い込んでしまっていたところもあり、「身体のスタミナの無さを精神力で補う」方にばかり能力が発達してしまっていたような気がする。コロナ禍のためいつも行っていたジムに通えなくなり、30も過ぎれば、もちろん歳を取るごとに体力の減退も感じる。
 
 
これは単純に体力が無くて仕事がしにくい、というような、単純な因果関係のことでもないと最近は考えるようになった。なにより、肺活量がある大多数のマジョリティの感覚を知らないままにここまで過ごしていたことは、大きな「定型発達者間の共感」とのズレの要素を抱えて過ごしてきた、ということでもある。良い声でしゃべったり、呼吸筋(外からみえる筋肉では腹筋など)を鍛えてみたり、といったことは、定型社会的にはモテるステータスであるし、その獲得を目指してトレーニングする人は多いだろう。
 
 
自分の場合は「自分の追いたいもの」がモテまくることとは全く無縁の方向に向いていたので(自然や芸術や哲学へ興味が向いた)、もともと喘息持ちだったこと、そういった身体を鍛えるための機会を逃して年齢を重ねてしまった(とも言えるかもしれない)こと、興味の向いた方向の性質上、精神力ばかりが高まった、また感覚の違いで痛みに対してハイポ(鈍感)な部分もあり耐えられたこと、などの要素によって、とにかく自然に肺活量がある(多い)状態での身体・思考においてできることの良さ、へ気づくのが遅れてしまったと感じたのだ。
 
 
 
 
発達障害傾向のある人の中でも、経歴上肺活量を鍛えている人ももちろんいるし、それこそ「自分の追いたいもの」がモテまくることだった(ゆえにより積極的に肺活量を鍛えた)人もいるだろう。発達障害者のTENTONTOメンバー数人と話をかわし、当事者研究をする中で見つかることは多いが、自分にとってはこの呼吸に関するスタミナがあることによって、考え方がまた変わってくる、という話が新鮮だったのだ。

肺活量が多いと、それだけスタミナの量が多い状態で過ごせ、スタミナがあるゆえに、スタミナを温存する意識をもったり、余剰のスタミナで空想にふけったりすることができているのかもしれない、という話をしてくれた(正確には自分と違う部分を質問、分析した結果この結論が導き出せた)。自分は推理的な想像はできる方だが、空想にふけるのが苦手な認識があったので、では鍛えようと早速試してみることにした。
 
 
ASD+ADHD的な非定型なアプローチとは自分でも感じるが、すぐに呼吸に関する解剖学的な知識を得るべく、YouTubeで講義やMRIの映像、3Dアニメーションなどを観た。トレーニング方法も調べ、自分なりにトレーニングにも使え、また上達が測りやすそうな装置を探して購入(それがサムネの商品である。気になる方はこちらのYouTube動画が詳しい)、毎日記録をつけるようにしている。

まだはじめたばかりで、効果はいずれまた記事にして紹介したいと思うが、自分の思考様式の社会活用のため、自分の環境を自分で改善する、の中に、自分の身体という環境も含まれ、そして自分の思考様式自体もより好ましい環境の中で発展していくことも、これもひとつのセンサリーデザインのある生活、と感じている。
 
 
 
ユミズタキス