わたモテは「タクシー・ドライバー」だった
TENTONTOエンタメ部 第11回
「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」(通称:わたモテ)を読んだ。2013年にはアニメ化もされた人気漫画だ。僕はこの漫画を読んだことがなかったのだが、「非リア」ネタにアニメ・ゲームのパロディを盛り付けた程度の漫画だと勝手に思っていた。しかし、この認識はすぐに改められた。わたモテはテントントさんあるあるを非常にリアルに描いている漫画だったのだ。
「リアル」と言っても「厳しいし残酷だけど甘えるな、これが現実!」といういわゆる、自然主義的なリアルさではない。確かに、この漫画は救いのない描写で笑いを取ったりすることが多々ある(ほぼ毎回そうだ)。だけれど、主人公・智子(もこっち)の行動パターンはまさに一部のテントントさんの思考を踏襲しているように感じられる。そういう意味でもわたモテは、「実情に即している=リアル」なのだ。
そんなわたモテを読んでいる最中、ある映画の登場人物が頭の中をちらついた。1976年の映画「タクシードライバー」の主人公、ロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィスだ。ニューヨークで孤独に暮らすベトナム帰還兵のトラヴィスは、友人を作ろうとして、人と親密になろうとして、失敗に失敗を重ねる。
主人公の智子は海外のコミュニティでの人気が非常に高いらしい。調べてみたら、アニメ版のわたモテに関するこんなレビューを見つけた。
‘WataMote': No Matter How I Look At It, It’s My Fault If I Find This Show Funny http://www.ganriki.org/article/watamote/
「このアニメが笑えるのはどう考えても私が悪い」
誰かが失敗するのを指さして笑う、それって楽しいの?(もしそうなら、今すぐこれを読むのをやめてほしい。)みんなが彼らのことを笑ってるとしよう。でも、あなたにとってその人たちと一緒のことをするのはOKなのか?
…わたモテは、誰か他の人が苦しんでいるのを観て笑うようあなたを誘う。彼女の身に起こることの大半が、彼女自身のせいであるかような描写によって。しかしながら、こうも語りかけてくる。たとえそれが彼女のせいだったとしても、彼女はそこまで苦しむべきなのか?私たちに彼女をみて忍び笑いをする権利があるのか?
…智子に起こる数多くの出来事は、ロジャー・イーバートによる「タクシードライバー」の絶賛評を思い出させる。「主要な登場人物たちは他人とつながりを持つことに失敗し続け、彼ら全員は絶望的に間違っている」。
「タクシードライバー」で描かれるのは、人と繋がろうとして失敗し続ける人間の姿だ。自分の心を満たせないがために、他人を歪んだ形で救うことを妄想する人間の姿だ。そこには確かに救いはないけれど、極めて不器用な形でしか人と交流をもてず、しばしば失敗してしまう人たちが存在するという事実の一側面を描いているという点で、まぎれもなく「リアルな」映画なのだと思う。
わたモテも同じだ。高校という環境で智子がどんな場面で苦心しているかを微細に描写している。そういう点で、「タクシードライバー」もわたモテもリアル、現実的なのだ。だから、是非わたモテを「笑い事で済ませない」でほしい。これはギャグ漫画だから、笑うのは大いに結構である。けれど同時に、もこっちが何故苦労しているのか、何故その様子を見ると笑えてきてしまうのか、考えてみてほしい。「わたモテ」2巻以降を読みながら、僕もいろいろと思索してみたいと思う。
Yutani