コラム:癒やしと、「切り離す」こと
先日の編集長によるコラムのタイトルに、「癒やし」というワードが入っていた。僕もこのごろ、このことばについて個人的に考えることが多かった(先日のポケモンコラムでもそう)。なので今日は、「癒やし」について考えたことを自分なりにまとめてみた。
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癒やしについて考え始めた切っ掛けは1ヶ月半ほど前、TENTONTOの新メンバーボル箱から、「Yutaniさんのラジオ、癒やされるんです」という言葉をもらったことだった。
そう言われたとき、率直に嬉しく感じた。他のメンバーも「ラジオパーソナリティっぽい」「トークが上手い」と言ってくれていて、誰かの癒やしを生むことができているなら、こんなに嬉しいことはない。そう思ったのだった。
そういったことをうけて考えたのは、「僕のラジオのどの部分が癒やしなのか」だった。ツイキャス配信のアーカイブを聞き返す限りだと、「話が逸れやすい」「トリビア的な情報を好み、それを『逸らし』の起点にすることが多い」といった特徴があることに気付く。友人と雑談しているときなどもそうなのだが、最近得た情報がいろいろと頭に浮かんできて、それらを次々に話したくなってしまう(『で、何が言いたいの?』と言われてしまうこともある)。ADD(注意欠陥障害)的な特徴が手伝っているのだと思う。
この特徴から考えると、「実利性は低いが、ある意味で面白みのある情報を、次々とまとまりなく届けている」ことが僕のラジオの特色で、それがある種の癒やしに繋がっている…ということになるだろう。
癒やしの実現には色々な形があると思うが、それらに共通するのは「切り離す」という要素ではないだろうか。社会生活を送る上でストレスを抱えたとき、それと関係のないことを考えたり、実行したりすること―ストレスの原因と、いまの自分とを「切り離す」こと―は、多くの人が求めるところだろう。僕のラジオの場合、「実利性が低い話が多い」という点が、社会との「切り離し」に繋がっているのかもしれない。
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僕にとっての「切り離す」方法のひとつは、街中の一風変わったモノを探しながら外を歩くことだ。どこか間の抜けた犬のイラストを見て、思わずニヤッと笑ってしまったり…そんなことをしている間に、気分が上向きになっていることが多い。
一方で、「切り離す」ことの難しさも、最近強く感じている。先月から就職活動に取り組んでいる僕だが、精神的にはかなりキツく、いま、無性にどこかへ旅行したい衝動に駆られている。経験上こうしたときにする遠出は、外出先でも嫌なことを忘れられず、結局何の癒やしも得られない場合が多い。「切り離す」ことにすがりついてしまっている状態だと思う。「切り離す」ことによる癒やしを実現するには、ある状態へと「戻る」前提が伴っているべきなのだろう。
とりとめのない会話を愛する僕だが、仕事となると、要領を得た話し方も、内容の実利性の高さも、いずれも求められる機会がほとんどだろう。いま直面している就職活動は、そうした場所に身を置くための前哨戦なのだと思う。「就職活動を通して、働くという形で社会にコミットする」というのが、いまの僕の答えだ。その答えが正しいかどうか、いまの時点で確証は持てないが、癒やしと「切り離す」ことについて向き合いながら、もうしばらく頑張ってみたいと思う。
Yutani