“些細なこと”と自分―『汝自らを知れ』のセンサリー
些細なことに苦しめられるからこそ、われわれは些細なことに慰められる。(パスカル『パンセ(上)』塩見徹也訳57p・岩波文庫)
少し前に書いたコラムで、パスカルの考える葦の話をしました。思考する自己があることの価値を伝える言葉ですが、圧倒的な存在を知って打ちひしがれたとき、私はこの言葉が頭のなかに度々よぎります。
考える葦の言葉が書かれた『パンセ』には、感覚と思考についての洞察が散見されます。虫が一匹耳元でぶんぶん飛び回っているだけで、世界最高の頭脳ですらその能力が発揮できなくなる、といった洞察です(同書p72)。これは私がTENTONTOを通して伝えたいセンサリーデザインが、どれだけ大切かを理解するきっかけに良い例えだと思います。
発達障害の当事者が、多くの人とは異なった風に感覚を受け取って、日々暮らすこと。その中で、実際には虫が耳元で飛び回っていなくても、神経の過敏によってそれと似たような刺激を感じて、思考できなくなる状況が生まれることは自然なことです。そして実際には虫が飛んでいないのに混乱する当事者を見て、多くの人がその感覚を理解できないことも、自然なことでしょう。
そこで、冒頭に挙げた”些細なこと”への洞察が、この命題にも思考を深めてくれます。発達障害当事者の感覚過敏はまた、多くの人よりもさらに些細なことに慰められる自己を形成することを助けるかもしれません。順序よく整ったものや完全な繰り返しが見られるもの、システム化指数の高さがある場合に脳が喜ぶような些細な規則や調和は、ある種の美しさとして繊細な当事者を癒やすことにもなるでしょう。
もちろん、個々人の感覚を一概にこうと言えない、症状の現れ方の多様性、スペクトラム性があることが、発達障害の理解や支援の難しさにもなっています。だからこそ、当事者自身が自身の感覚について考え、それについてできることをしていくこと。このことはいくらソーシャル・サービスとして発達障害者へのサポートが充実しきった未来になったとしても、当事者自身に求められることだと思います。
自分自身を知らなければならない。そうすれば、たとえ、真実の発見には役立たないとしても、少なくとも自分の生き方を整えるのには役立つ。そしてこれほど正しいことはない。(パスカル『パンセ(上)』塩見徹也訳95p・岩波文庫)
ユミズタキス